黄桜の里 歴史と民話ミッション

ミッションをクリアすると巨大なメダルアートが誕生
Lv10以上のAGは新たなポータルを申請することができます。東由利で新たな発見をしたときにはぜひ申請してみてください。
【注意‼】
※携帯キャリアによっては電波が届きにくい場所もあります。
※冬期間は通行止めの場所があります。(#1~#19までは通年可)
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全ミッションルートマップ

#1 ようこそ黄桜の里へ-展望台からの東由利
東由利総合支所の正面左側の入口から左に向かうと展望台へのエレベーター(土日祝も利用可)/かつて大きな酒蔵もあった東由利の中心部と鳥海山と八塩山を眺められる。歴史:旧東由利町は2005年3月22日- 本荘市と由利郡矢島町・岩城町・由利町・西目町・鳥海町・東由利町・大内町が合併、由利本荘市となった。◆全24連作ミッション◆徒歩10分 #1の歴史と民話詳細へ
#2 黄桜の里・道の駅さんぽ
国道生みの親としての功績を讃えた小松亮太郎翁の顕彰碑がある道の駅東由利黄桜の里。地元の農家が作った産直野菜、飲食や買い物ができる商業施設と温泉施設があり、ここでしか入手できないご当地キャラ「黄桜すい」のグッズがある。歴史:1995年に温泉保養センターと産地形成促進施設が営業開始、1996年に道の駅に登録され、1997年に地場産業センターがオープン。◆徒歩5分 #2の歴史と民話詳細へ
#3 弁天島の河童と夜泣き地蔵
大きな沼にポツンと島のように佇む弁天島には美しい女性に化けて人を驚かした河童や、拝みに行くと子供がすやすや眠るという言い伝えがある泉秀寺の夜泣き地蔵など伝説が今も残る老方地区。◆徒歩20分 #3の歴史と民話詳細へ
#4 横荘線鉄道の夢を辿る
歴史:大正3年~昭和46年の57年間、横手と本荘間を結ぶ鉄道計画があったが最終的には繋がらずにその夢は叶わなかった。東由利町役場跡に老方駅があった。民話:奥地の祝沢地区はその昔、山賊がよく出たと言われる「斬りふたぎの沢」やたくさんの猿が遊んでいたと言われる「野郎が沢」などの説話が残っている。◆徒歩10分 #4の歴史と民話詳細へ
#5 湯出野縄文遺跡1万年のロマン
玉米盆地の中央東部、石沢川の河岸段丘上に残る縄文後期 ~ 晩期と推測される考古遺跡。1977年、石器や鉢型、つぼ型、注口付きの土器や土偶が出土。当時のお墓である土壙どこう(墓穴)が103基 まとまって発見され、周辺からは一緒に埋葬されていたと思われる勾玉、小玉、耳飾り等の副葬品が出土。縄文期の土壙遺跡としては県内最大規模。1978年秋田県の史跡に指定。◆徒歩15分 #5の歴史と民話詳細へ
#6 八日町のいなりさま
民話:600年前、佐藤豊前信行 (奥州信夫郡の武士 )は主君の討死、国が滅び、家族を失い一人落人となり八日町に逃げ延びてきた。刀を捨て百姓として一生を暮らす道を選ぶ 。ある日、稲荷大明神様の使いである白狐を見たことから 「養助山国恩寺」を建立した。◆徒歩10分 #6の歴史と民話詳細へ
#7 東由利の運動施設
東由利老方字台山にはプール、球場、室内運動場、体育館などの運動施設が集まっている。民話:かつてあった造り酒屋の長者と女中の扇子とのいざこざから扇子が湖で溺れ死に酒屋がみるみる衰退していった民話の「扇子堤」がこの台山にあったらしい。◆徒歩10分 #7の歴史と民話詳細へ
#8 東由利の文化施設
東由利の文化・歴史的スポットをハック。旧東由利村時代に馬産改良の先駆をなした小松九八郎の碑が松林にひっそりと佇む。その長男、小松亮太郎は国道107号線開設の先覚として道の駅東由利に石碑が建てられている。◆徒歩10分 #8の歴史と民話詳細へ
#9 義家が射抜いた上里の的が沢
伝説:950 年前「前九年後三年合戦」の時代。 源義家は24 才で東北の安倍家を滅ぼし、 45 才で陸奥守・鎮守府将軍となる。義家が遥か遠い沢(藁沢=蔵新田)の的へ矢を見事射抜いたことから「的が沢」と付く。上里が気に入り馬の練習場も作る。馬の休み馬にしていた倉沢の奥にある片倉では今でも馬のひづめの音が聞こえてくると言われている。◆車5分 #9の歴史と民話詳細へ
#10 桜長根のあだうち石田坂橋の妖怪アズキとぎ
民話:矢島で藩医の戸板ようすけを刀で殺し逃げ出した仙台殿様の家来、佐藤多利治は渡辺と名乗り蔵で習字の先生として隠れながら暮らしたが、桜長根で戸板ようすけの弟たち3人に仇討される。佐藤多利治の墓は岩舘に「安応浄心士」という石とうが建てられている。酒癖の悪い男だったそうだ。 ◆車5分 #10の歴史と民話詳細へ
#11 母なる大樹、岩舘の大銀杏
400 年前|内館城の城主―小笠原蔵人(くらんど) と奥方、第二夫人静江の物語。静江は城内の鎮守様に生えている銀杏の精霊。乳が出ず赤子を育てられなかった奥方へ優しく尽くしてくれた恩返しとして乳が出るようにしたのと引きかえに儚く散っていった。
◆信州から持参した守護神/馬の鞭にしてきた銀杏の小枝を地にさしたのが大銀杏となったと言われている。 #11の歴史と民話詳細へ
#12 二人の狩人と巨木八本杉
1200 年前|大友吉親(よしちか)ともう一人の狩人、遠藤太郎は山の奥地へと進み光り輝く巨木から山の鎮守の神があらわれ「この木には蔵王権現(釈迦牟尼如来)が宿るが故、権現様を祀れ」告げられ「保呂羽山天国寺」を建立した。巨木が多くあり樹齢700年の八本杉にも鎮守の神が宿っているかもしれない。(※法内の八本杉にもポータルが存在)◆車10分 #12の歴史と民話詳細へ
#13 黒沢ながねのばけ猫伝説
民話:黒沢峠からは昔から変わらないであろう独特の風景があり、黒沢ながねの山道近くの小高いところには昔、村人が化け猫を退治し葬ったとされる猫塚が今もあるそうだ。
三つの藩の境界を見守ってきた集落である大台・三ツ方森地区では大規模な野焼きが受け継がれ太くて粘りの強い蕨が育つ。◆車10分 ≫歴史 #13の歴史と民話詳細へ
大台にはNightmareの発生源、異世界とのゲートがあるオンコの木が存在します。 ≫場所を確認
#14 トラ子沢と根城舘
高館山の手前に「トラ子沢」という沢がある。現在の大琴の梅津政男の何代か前、トラ子という子供がいた。思いやりがあり、家の手伝いをする良い子だった。
例年にない大雪が降った年、そり引きの仕事を始めると、トラ子もそりを押し、父母を手伝った。しかしせまい沢で雪崩が起き、そりと一緒にトラ子を飲み込んでしまった。トラ子の死を思い、哀れみ「トラ子沢」という名が付けられた。◆徒歩5分 #14の歴史と民話詳細へ
#15 桜と鯉のぼりとスキー場
5月には満開の桜並木と川に架けた鯉のぼりが見られるスポット(河川公園にトイレ完備)。かつて活気のあった大平スキー場は赤字経営で存続の危機となるも教育施設として役割を変え、今もなお子供たちにスキーを体験する場を提供し続けている。ここで育ったスキースポ少は全国大会に出場するほどの活躍をしている。◆車5分 #15の歴史と民話詳細へ
#16 高屋のベゴ清水と須郷の風穴
[高屋]その昔、ならの木清水で水を飲んだ牛が丸々と太り艶やかな毛並みとなりその日の矢島のセリでは一番の高値となったことから「ベゴ清水」とも言われた。
[須郷]須郷長嶺の頂上に風穴があり、心地よい風が吹くという。大きな松の木があり、土地の人々は神がやどる木として大切に祀っている。春秋にそこで百万遍を行う風習がある。(守りたい秋田の里地里山50認定地域 )◆車7分 #16の歴史と民話詳細へ
#17 矢島・本荘藩領界の滝
歴史:戦国時代~江戸時代の矢島藩と本荘藩の領界を分けた滝がある。旧本荘市と旧東由利町の境には旧東由利町のゆるキャラモウ太くんの案内看板がある。◆車5分 #17の歴史と民話詳細へ
#18 八人塚~武士たちの葛藤~ 
日向の国の没落したお家再興にかける家臣達と武士よりも人間として生きようと悟った家臣達の葛藤の末、八人の武士が自決した悲劇の地。子供の守り神として「二十三夜様」と親しまれている地蔵さまや、だましのうまい又助きつね、安子物語など語り継がれる話が多い集落。◆横手から由利本荘市への玄関口◆車5分 #18の歴史と民話詳細へ
#19 河童のくれた刀
須郷田・高戸屋・下小屋は河童や大蛇や竜など水にまつわる神話がある。赤茶色と白っぽい縞模様になった大きな須郷田層は「ぬのざらし」に絡めて様々な説が残されている。河童がくれた刀は小松九郎平の子孫、卯一郎さんが大切に持っていているそうだ。◆車8分 #19の歴史と民話詳細へ
#20 恵風~八塩いこいの森
県内最大級のパークゴルフ場があるキャンプ場でセンターハウスでは十割蕎麦の八塩そばが食べられる。わんぱく広場、八塩野外ステージからは八塩山が美しく見える。◆徒歩10分 #20の歴史と民話詳細へ
#21 幸福の鐘とこうふくの橋
八塩ダム沿いをぐるりと回りこむと赤い吊り橋がありの奥には幸福の鐘。この先には八塩山から流れてくる沢があり、ワカサギやイワナが釣れることも。八塩山を崇拝し幸せを願う地域の人々がここにいる。◆車10分 #21の歴史と民話詳細へ
#22 ボツメキの水神とならのき観音
1日に約900t湧き出すボツメキ水源地は東由利地域の生活をささえる生命の泉で水神様を祀っている。その近くには馬の守護神として観音様が祀られ、八塩山からの強い雨風から守ろうと集落の人々がナラの木を植えたところナラの木の根が3方に分かれ観音様を押し上げて今では1m 以上にもなる。そこで集落の人々は「ならの木観音さま」と呼ぶようになった。◆車5分 #22の歴史と民話詳細へ
#23 八塩の観音さま<八塩山山頂・八塩神社>※ルートを要チェック!
八塩山の頂上に、東西に約 100m ぐらいの平らな場所がある。八塩山の北側のお宮の下は急な崖になっており「観音平」と呼ばれている。石高の人々は昔から八塩の神様として崇拝してきた。
お宮のご神体として大きな馬が祀られているのは農家として馬との関わりを大切にしてきた証。◆徒歩50分 #23の歴史と民話詳細へ
#24 由利十二頭伝記に残る高館の山
「由利十二頭伝記」による元亀3年(1573)の下村氏と石沢氏の合戦場とされる高館山。大琴の佐々木日出夫さんが建てた高館四季の家から徒歩十数分で登頂でき鳥海山、八塩山、鬼倉山、保呂羽山など360°の景色が堪能できる。
◆車20分+徒歩10分 #24の歴史と民話詳細へ

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スペシャルサンクス

#1
由利本荘市役所東由利総合支所
正面左側の入口から入って左側に展望台へのエレベーターがあり土日祝も利用可能。かつて大きな酒蔵もあった東由利の中心、老方の街並みと鳥海山と八塩山の共演が見られます。
TO EN 東由利ショッピングプラザ
こちらの入口からは地元農家の産直野菜や加工品、秋田のお土産コーナーがあります。ここでしか入手できない東由利ご当地キャラクター「黄桜すい」のグッズコーナーがあります。
#2
ふれあいプラザ ぷれっそ
本、薬、文具、日用雑貨、食料品、食堂、ヘアサロンが入った協同組合で運営するショッピングセンターです。
道の駅 東由利
「やしお」というレストランがあり、東由利特産のフランス鴨を使ったラーメンやロースト、秋田由利牛を使った郷土料理を味わえます。
顕彰碑 小松亮太郎翁
【国道107号線開設の先覚・小松亮太郎】
小松亮太郎翁は、明治二十年代の末にオーストラリア産の良馬三十余頭を購入し、下郷、玉米の馬産家に無償貸付けして”名馬王国”とする基礎をきずいた。
県会議員、下郷村長などの要職を歴任し地方自治の発展のために捧げた。明治29年、本荘手街道(現在の大船渡―本荘線)の開設に成功し村の発展に繋がった。昭和28年、国道107号線、一級国道に昇格。
湯楽里(ゆらり)
黄桜温泉の名称で親しまれている温泉(入浴料310円)とレストランがあります。東由利の名所、ボツメキ湧水で仕込んだ地ビール、ボツメキビールがお土産として販売されています。特産品のフランス鴨のササミ燻製をぜひビールのお供に。
#3
玉米山 泉秀寺 山門
泉秀寺の入り口に、地元の人が「夜泣き地蔵さま」「さとう地蔵さま」と呼ぶ地蔵さまがある。子供が風邪を引いたり、引きつけを起こして泣いた時、拝みに行くと子供がすやすや眠るという言い伝えがある。近くの人々はお礼に子供の好きな甘い物やお菓子を供え、いつの間にか砂糖の好きな「さとう地蔵さま」と呼ばれるようになった。毎年 6 月 23,24 日はお地蔵さまの日として毎年お祭りをし子供が元気に育つようお祈りする。
老方郵便局
この近くから見えるところに貯水池がある。
何百年も前の話、貯水池の向こう岸の林におおわれた小さな島に、村人がため息をつき振り返るほどの美しい女性が住んでいた。そのうち、昼は美しい女性に化けていて、夜はカッパになって人や馬にいたずらする、という噂が伝わった。
しかし村の人は情け深く見逃してつつみのそばを通り過ぎた。そのうち女性を見かけることも、カッパのいたずらもなくなり、村の人は女性は神様になったのだ、とその島にべんてん様のお堂を建て祀った。それからは、どんな日照りでもつつみの水が枯れることはなくなり「べんてん島」と呼ばれるようになった。
老方小学校跡
明治7年 老方小学校
明治15年 玉米小学校(主部校)
昭和22年 下郷村立老方小学校
昭和30年 東由利村立老方小学校
昭和49年 東由利町立老方小学校
昭和59年 高瀬小学校創立(蔵小、法内小と統合)
平成14年 大琴小学校と統合
平成23年 高瀬小学校・八塩小学校の統合により東由利小学校開校(校舎は旧高瀬小を使用)
#4
老方コミュニティセンター
1984年(昭和59年)老方小学校廃校・コミュニティセンターとして利用されている
東由利町役場
かつて「老方駅」があった場所。横荘線(おうしょうせん)という、秋田県内陸南部の横手盆地を走っていた羽後交通の鉄道路線があり、横手市の横手駅と由利郡東由利村(現・由利本荘市)の老方駅を結んでいたが、1971年(昭和46年)に全線が廃止された。
小さな祠
ここからは川向こうの景色は横荘線鉄道が通っていたであろう面影を少し感じることができる。大正時代に「釜石 – 横手 – 本荘間」を結ぶ“陸羽横断鉄道構想”で建設が始まったが、昭和恐慌や日中戦争・太平洋戦争、水害などの度重なる天災により、最後まで目的を果たせず「壮大な構想」で終わった。現在、由利本荘市の羽後本荘 – 矢島を結んでいる由利高原鉄道鳥海山ろく線のうち羽後本荘 – 前郷間は、横荘鉄道西線として建設され、本来は横荘線(東線)「老方駅」と連絡する計画であった。
二十三夜塔(老方寺田)
これより先にある祝沢地域は横荘線鉄道が通っており現在は廃線を生活道路として利用されている。
祝沢へ下りる沢は山賊がよく出たということから、「斬りふたぎの沢」と呼ばれている。「斬り」は刀、「ふたぎ」
はおいはぎをさすという。祝沢に住んでいる人が子供の頃、山賊に襲われた死体を見たという。
村社御嶽神社石柱
この先の祝沢地域から横手(旧雄物川町)に抜ける道は、4本の鉄道トンネルがあり現在は生活道路として活用されている。(笹倉トンネル・浮蓋トンネル・金屋トンネル・御岳トンネル(さらに最長200mの二井山トンネルがあるが崩落のため利用されていない))
祝沢分校のあるあたりには「野郎が沢」と呼ばれる沢があり、昔、たくさんの猿が遊んでおり、猿の様子をみて天気を当てることができたという。晴れの時は猿たちものんびり過ごしており、雨の時には猿の姿がない。大嵐の時には猿が大騒ぎしたという。猿の野郎という意味で「野郎が沢」と呼ぶようになったという。
#5
湯出野遺跡
秋田県指定史跡。縄文時代後期から晩期(今から2,500年前から3,000年前)の遺跡で、103基の土こう墓(いわゆるお墓)が地上に復元されている。遺跡全体の面積は、約2万平方メートルと推定され、発掘調査はこのうち、1,200平方メートル実施されました。土こう墓の大きなものは、長さ120センチ、幅60センチ、深さ30センチほどで、長方形や小判の形をしている。
お墓の中からは、勾玉や小玉、耳飾りなどが出土しており、死者が生前身につけていたものを一緒に副葬品として埋葬したのではないかと考えられている。この出土品は、八塩生涯学習センターに展示されている。
#6
鹿島神社(八日町) 
八日町のいなりさま
600 年前、佐藤豊前信行(奥州信夫郡の武士)主君の討死、国が滅び、家族を失い一人落人となり八日町に逃げ延びこの地へやってきた。刀を捨て百姓として一生を暮らす道を選び、浪人を退治したことから村から絶対の信頼を得る。
ある日、白狐を夢でも狩りの山中でも見るようになり稲荷大明神様の使いと知る。それからこれまでにない豊作に恵まれ、娘を神社の使い姫にした。
山中で白狐が信行を案内した山に「養助山国恩寺」を建立し、九月九日は五穀が実った大吉日として祭り年々盛んになっていく。土産神(うぶしな)の祭り、虫よけの祭りなどがある。
舘前学校跡
東由利館合に明治14年(1881年)に落成した、館前学校があった。ドイツ人が設計した三階建で、バルコニーが付いたモダンな建物であった。
建物は地域の有志が資金を出し合って建て、地域のシンボルとして親しまれていた。
音楽家の小松耕輔兄弟なども卒業しており、後には役場や農協購買所としても活用されていた。
その後老朽化が進んで解体されるまで、県内で現存する一番古い学校であった。
解体された後に図面を元に、コンピューターグラフィックで再現され、 モダンな設計であったことが写真で見ることができる。
#7
ITOEN東由利体育館
台山と呼ばれるこの辺一帯には、扇子堤(せんこづつみ)と呼ばれる老方にあった造り酒屋の盟主と女中との悲劇の物語が長者伝説として残されている。その堤は開発により今では存在しない。
#8
故小松九八朗之碑
旧東由利村時代に馬産改良の先駆をなした小松九八郎の碑が松林にひっそりと佇む。その長男、小松亮太郎は国道107号線開設の先覚として道の駅東由利に石碑が建てられている。
#9
上里会館
950 年前「前九年後三年合戦」の時代。 源義家は24 才で東北の安倍家を滅ぼし、 45 才で陸奥守・鎮守府将軍(東北最高位)となる。義家が遥か遠い沢(藁沢=蔵新田)の的へ矢を見事射抜いてみせたことから「的が沢」と付く。上里が気に入り馬の練習場も作る。馬の休み馬にしていた倉沢の奥にある片倉では今でも馬のひづめの音が聞こえてくると言われている。宮の前の八幡神社「弓矢八幡」と言われる。◆東北地方に伝わる八幡太郎義家伝説の一つ 。
宮ノ前会館
上里から太平山のテレビ塔方面に行くと別れ道があり、そこに昭和 25 年頃建立された「遠山独開居士」と刻まれた石碑がある。石碑の有るところを土地の人は「コゼトバ」と呼ぶが、正確には小左エ門の卒塔婆、という意味。
石碑によると、上里や宮の前の田圃は高瀬川より高い所にあり、水不足に悩んでいた。そんな所に小左エ門が現れ、小倉集落に流れている浅田山の沢の水持ってくる、という大きな計画をたてた。浅田山の中腹に「せき」と、水を貯めておく「石滝のつつみ」を作った。工事中、水不足を懸念した人達が邪魔をすることもあったが、小左エ門はついに工事は完成した。皆が喜んでいる中、小左エ門はいつの間にか居なくなっていた。
村人はこれを記念誌、遠くの山から持ってきたせき、ということで「遠山ぜき」、一人で切り開いた、ということで「独開」と名付けた。
#10
大蔵館
ここから東由利小学校へ通じる道に石田坂橋があるが、昔、その橋の下に一ぴきのようかいがすんでいて、夜になるとアズキをとぐ音がするので、人々は「石田坂橋のアズキとぎ」と呼ん
でいた。
ある晩、新田の太次平という人がこの妖怪の正体を確かめたところ、一匹のテンだった。テンは魚が少なくなり困っていたので、太次平は魚の多く住む川を教えた。それ以来橋の下からアズキをとぐ音はしなくなった。
ある年の春、火事があったが、太次平はアズキとぎの音を頼りに逃げ、無事だったという。
永慶山蔵立寺
境内に入ると16体の仏像「十六羅漢像」を見ることができる。同市のふるさと応援大使を務める畑山敏也さん=旧東由利町老方出身=が「地方創生に役立ちたいと思った。多くの人に訪れてほしい」との思いで寄贈した。
 十六羅漢とは、釈迦(しゃか)の弟子の中で特に優秀な16人の弟子のこと。像は本堂前に設置され、高さ約80~145センチ。中国の職人が御影石を彫って制作した。体の肉付きや衣服のしわなどがリアルに表現され、威容を誇っている。目を閉じている顔や、ほほ笑んでいる顔、目を大きく見開いて怒っている顔など、一つとして同じ表情はないという。像は、畑山さんが埼玉県の石材店で偶然見掛け、その精巧なつくりや表情に一目ぼれ。生家の菩提寺(ぼだいじ)である蔵立寺に寄贈しようと自費で購入した。
蔵簡易郵便局
この先の岩舘には、佐藤多利治の墓は岩舘に「安応浄心士」という石とうが建てられている。
この男は矢島で藩医の戸板ようすけを刀で殺し逃げ出した仙台殿様の家来、佐藤多利治は渡辺と名乗り蔵で習字の先生として隠れながら暮らしたが、桜長根で戸板ようすけの弟たち3人に仇討される。酒癖の悪い男だったそうだ。
#11
岩舘の馬頭観音 【鈴の音の井戸|岩舘】
昔、彦えんという人の家に托鉢僧が来て、井戸の水を所望した。その時、僧の持っていた鈴が井戸の底に沈んでしまった。僧は彦えんに鈴を取って欲しいと言ったが、彦えんは断った。
その日から彦えんは腹痛に苦しむようになった。そこで村人に頼み、井戸の底から鈴を拾って、水神様として祀ったところ、腹痛が治った。そして彦えんの家も栄えたという。
岩舘の大イチョウ 信州から持参した守護神/馬の鞭にしてきた銀杏の小枝を地にさしたのが大銀杏となったと言われている
#12
菅原神社鳥居 【山の神の火の玉|小倉】
中の沢に通じる小倉の村はずれに「山の神」のお宮がある。元は中の沢集落にあったが、火事で焼けてしまった。しかしご神体は無事だったので現在の小倉集落の中の沢寄りに建てることにした。
いよいよご神体を移す日、ご神体を先頭に行列を作ると、行列の上に大きな火の玉が燃えながら小倉の新しいお堂に飛んで行った。月日がたつ
と、お宮の屋根裏に大事なものがある、と言い出された。2,3 人で屋根裏に上がったところ、古ぼけた箱があり、中には焼けただれたような 1 個の石が入っていた。人々はあのときの火の玉だったのでは、と言い今でもお堂に祀られている。集落の人々は 5 月 12 日にお宮せお祭りを行い、12 月 12 日にはお宮の別当の当番を渡す「とばんわたし」が行われている。
菅原神社 【竜頭閣の湯 (野田)(りゅうずかくのゆ) |野田】
野田の遠藤家は「竜頭閣の湯(清水)」として親しまれている。この家の先祖は心やさしく、ある時蛇を助けたことがあった。のどが渇いたので水を探していたところ、蛇が案内をしてこの清水を見つけたという。ここは日照りの年でも水量が変わらず、湧き続けている。
法内克雪管理センター 【大石観音さま(おおいしかんのんさま)|中の沢】
中の沢の工藤家の屋敷内には「大石観音」と呼ばれる観音様が祀られている。観音様にはたくさんの石が供えられており、人々は体に悪い所があると石を借りていって悪いところをさすると治ったという。今でも毎年5月 17日に「大石観音さま祭り」を行っている。
※中の沢はこれより奥の旧大森町の境にある地域です。
法内上苗代の東屋 【滝の下の不動さま |小倉・高村・滝の下】
滝の下集落にある橋の下に滝がある。滝の上にお不動様が祀られている。昔、日照りの年に、滝つぼの近くに今まで見たことのない大きな石が置かれていた。
集落の人はその石を神の化身と思い、滝つぼに運んで冷やしたところ、雨が降ったという。
その石を滝の上のお堂におさめ、昭和のはじめ頃まではそこで雨乞い祭りなど行ったという。
法内の八本杉案内柱 法内八本杉への案内柱。推定樹齢700年、森の巨人たち100選の一つである。八本杉にもポータルが存在するが電波が届かないためハックが難しいため除外しているがぜひ訪れて欲しいスポット。
横渡のお地蔵様 【つとこもれのみこ|横渡】
昔貧乏な農家では育てられない子供を「つとこに入れて流」したが、可愛くて流せない子は「つとこもれ」と呼ばれた。横渡に働きに来ている子供のことを、人々は「つとこもれのみこ」と言っていた。ある時、弥作の家の子供が病気になった。みこは毎日山に登って子供の無事を祈った。弥作がみこのあとをつけたところ、みこの祈る姿を見たが、その後、吹雪の中に消えてしまった。人々はみこを、太平山様の化身に違いないと、お堂を建ててお参りし、今でも子育ての神として信心している。
#13
黒沢会館 この黒沢会館から見える黒沢峠は昔から変わらないであろう独特の風景があり、黒沢ながねの山道近くの小高いところには昔、村人が化け猫を退治し葬ったとされる民話が残りその猫塚がどこかにあるそうだ。
三ツ方森の東屋 ここから日本三大花火の一つとされる大曲の花火が遠くから小さく見ることができる地域の人にもほとんど知られていな隠れスポット。
三ツ方森会館 三つの藩の境界を見守ってきた集落である大台・三ツ方森地区では大規模な野焼きが受け継がれ太くて粘りの強い蕨が育つ。この三ツ方森会館で千円を払うとそのワラビを採ることができる。
#14
大琴農村公園 この大琴農村公園から見える高館山の手前に「トラ子沢」という沢がある。現在の大琴の梅津政男の何代か前、トラ子という子供がいた。思いやりがあり、家の手伝いをする良い子だった。
例年にない大雪が降った年、そり引きの仕事を始めると、トラ子もそりを押し、父母を手伝った。しかしせまい沢で雪崩が起き、そりと一緒にトラ子を飲み込んでしまったという話が残されていて、そのトラ子の死を思い、哀れみ「トラ子沢」という名が付けられたそうだ。
トラ子沢は国道を渡ると見つかるはずだ。
大平山石碑 すぐそばに御嶽神社がありかつてこの地域で出兵した戦死者が大切に祀られている。
根城遺跡Ⅰ 【鶴巻き渕】
横渡のはずれに根城という高台があり、そこから見下ろせる深い渕は鶴巻渕と呼ばれた根城館の落城にまつわる話
400 年程前、元亀三年下村城主四代目、小笠原信濃守奥長は内舘(今の岩館)に居城を構え下村(旧、下郷地区)を治めていた。その頃、本城の他に出城として、今の根城の館があった。
その館の上を毎日決まった時刻に1 羽の鶴が飛んでくる。城主奥長は「平和の女神、お城の守り神」と毎日その鶴を眺めていた。しかし、庄内軍(山形県酒田市)と組んだ仁賀保平庫守に戦いを挑まれる。奥長は重臣阿部五郎定友(子孫阿部源次郎)軍師千葉備中(子孫千葉覚太郎)と話、火縄銃を使うことにし、根城館で陣を固めた。
鶴がいつものように館野上を飛んでいたが、明日の合戦の腕試しに、と真木新助が鉄砲で鶴を撃ち落とした。鶴は渕に吸い込まれるように姿をけし、それを見た城主奥長の胸に不吉な予感がした。文禄 2 年 5 月 3 日、押し寄せた敵軍に下村軍はかなわず負けてしまった。鶴を撃ち落とした真木新助は、落城のむなしさと、鶴を哀れみ法内の極楽寺のお坊さんとなった。
■宿地区の国道には根城橋が架かる。
#15
宿河川公園 5月には桜並木と川にかけられたたくさんの鯉のぼりを見ることができます。
大平スキー場 かつて活気のあった大平スキー場は赤字経営で存続の危機となるも教育施設として役割を変え、今もなお子供たちにスキーを体験する場を提供し続けている。ここで育ったスキースポ少は全国大会に出場するほどの活躍をしている。
#16
高屋のお稲荷様 【ならの木清水|高屋】
むかし、高屋部落に住んでいた山仕事専門の父、母、十歳になる娘と一頭の牛の貧しい家があった。
近くに友達がいなかった娘は大事に牛の世話をしていたが矢島のセリに出す前でも痩せていた。
セリに連れていく道中、牛は逃げ出し、探し見つけた牛は清水を飲んでいて見違えるほど丸々と太り毛並みが艶々になっていた。そして、その日のセリでは一番の高値となった。そのことから「ベゴ清水」と呼ばれるようになった。
須郷のお地蔵様 [須郷]須郷長嶺の頂上に風穴があり、心地よい風が吹くという。大きな松の木があり、土地の人々は神がやどる木として大切に祀っている。春秋にそこで百万遍を行う風習がある。(守りたい秋田の里地里山50認定地域 )
袖山の東屋 【遙拝殿 (神山)(ようはいでん) |袖山】
もとの袖山小学校を通って大吹川向かって二百メートルぐらいのところに橋があります。
このように、「春のむしまつり」…続いていたということです。
袖山の奥に台地があり、土地の人々は「遙拝殿」と呼んでいる。見晴らしが良く、鳥海山や遠くの山々もよく見
えるという。以前はここで雨乞いや作祭りなど、さまざまな行事が行われていた。
袖山館 【桜清水|大吹川】
八塩いこいの森へ向かう途中に桜清水という湧水がある。
種まき時期に開花することから「種まき桜」とも言われていた大きな桜の下に湧き出るさくら清水。
[民話]父子二人暮らしの 孝行息子が年老いていく父に見せた満開のきれいな雪の桜の話がある。
船内場の地蔵尊 【金ほり山(かねほりやま) |船内場】
袖山集落に行く途中、赤倉の沢と呼ばれる大きな沢がある。
昔、山師が来て、「ここには金などが隠れている気配がある」と言ったために集落の有志で山を掘ったが何も見つからなかった。
そして山師もいつの間にか消えてしまった。この事があってから、その場所を「金ほり山」と呼ぶようになったという。
#17
船木の庚申塔 この地域では、男清水(おしず)と女清水(めしず)と呼ばれる二つの湧水が山奥にある。この地域の生活用水であり旧大琴小学校のプールへも供給されていた。かつて、遺跡発掘調査がおこなわれ立派な縄文土器が出土し、八塩生涯学習センターに展示されている。
藩境の滝 戦国時代~江戸時代の矢島藩と本荘藩の領界を分けた滝
#18
#19
須郷田日吉神社 この近くの民話【河童のくれた刀|須郷田(大巻渕)】
一番の長者だった九郎平。自慢の馬が河童に引きずられるも馬力が強く逆に河童を引きずり回す。これまでの悪さに許すことができなかった九郎平は村で見世物にしようとするが、何とか許して欲しい河童は河童丸という宝物である刀を渡すと約束。以来悪さをしなくなった。河童は正直者だった。受け取った刀は正月十一日に天道様に見せている。 その刀は第二次世界大戦終了時に GHQ から没収されたとのこと
住吉簡易郵便局 この近くの民話【布ざらし|須郷田・田代高戸屋】1000 年以上前、一人の美しい女性が村の向いの川岸の崖の上に小屋を建て住みついた。ミフメはカラの国から都に連れてこられたと噂されていた。美しい歌声と機織りで村人を魅了し、村の女たちは機織りを教わり遠くの町で布を高値で売ることがで
き村中が豊かになった。やがてどこかから流れて住み着いたハクオという男を婿にとりハクオとその母と三人幸せに暮らすも川の氾濫によって濁流にのまれてしまった。しかし、ハクオとその母が大蛇となり濁流をせきとめミフメの命を守ったのだった。もともと母子は大蛇の化身でありそれをみたミフメは驚き死んでしまった…。母子はミフメのなきがらを川下の流れの中の洞窟の奥深くに白い竜となり姿を隠した。今でも川渕からは悲しげな歌や機織りの音が聞こえてくる 。
住吉小学校の沿革  明治18年 舘前尋常小学校田代・黒渕分校
明治25年 渕田尋常小学校
明治45年 住吉尋常小学校
昭和22年 玉米村立住吉小学校
昭和30年 東由利村立住吉小学校
昭和49年 東由利町立住吉小学校
昭和57年 八塩小学校創立
平成23年 高瀬小学校・八塩小学校の統合により東由利小学校開校(校舎は旧高瀬小を使用)
 住吉館 この近くの民話【しま渕】
須郷田の集落を過ぎ、高戸屋に向かう途中の高瀬川にかかる川原田橋の上流、200m 付近に切り立った崖と渕がある。土地の人々は「ぬのざらし」「ぬのざらしのがけ」、渕を「しま渕」と呼ぶ。崖は高さ 20m、幅 50m 程で赤茶色と白っぽい縞模様になっており、須郷田層と呼ばれている。「ぬのざらし」の伝説はいくつかあり、大きな蛇が自分の姿を遠くからも見えるよう縞模様の崖に変え、柴倉の方に逃げた、という説。また周囲に反対され夫婦になれなかったことに悲観した娘が身投げをし、晴れ着の模様がぬのざらしの崖に変わったという説。3 つ目は、明治 20 年代のある年、日照りが続き、沢水や井戸も枯れたが、ぬのざらしの「しま渕」だけは水があり、高戸屋、下小屋、須郷田の人はその水を使い助かった。感謝を込め、ぬのざらしの上におすわ様(諏訪神社)というお宮を建てた。
#20
八塩いこいの森 公式ページ
#21
幸福の鐘 ぜひ幸福の鐘を鳴らしてみてください。幸せが訪れますように。
#22
ボツメキ湧水 1日に約900t湧き出すボツメキ水源地は東由利地域の生活をささえる生命の水で水神様を祀っている。
石抱きのなら案内柱 【ならの木観音さま】
八塩山のふもとにある「ならの木観音様」は馬の守護神として祀られている。昔、八塩山からの強い雨風から観音様を守ろうと、集落の人々がナラの木を植えたところ、ナラの木の根が3方に分かれ、観音様を押し上げて今では1m 以上にもなる。そこで集落の人々は「ならの木観音さま」と呼ぶようになった。
#23
八塩神社 八塩山の頂上に、東西に約 100m ぐらいの平らな場所がある。八塩山の北側のお宮の下は急な崖になっており「観音平」と呼ばれている。石高の人々は昔から八塩の神様として崇拝してきた。お宮のご神体として大きな馬が祀られているのは農家として馬との関わりを大切にしてきた証。
八塩山山頂標柱 山頂休憩小屋には登山ノートが置かれています。記念にぜひ書き記してみてください。
#24
八坂神社鳥居 【善徳のわらび|善徳】
道に迷った坊主が一晩の宿をと家々を訪ねるも汚れて貧しく見える容姿から断られ続け野宿を覚悟しながら見つけた山小屋で父を看病する娘に出会う。貧しくもてなしができない代わりにあく抜きしたわらびを差し出した。
美味しいわらびに感心した坊主が宿のお礼にあく抜きせずとも食べられるわらびに変えた。するとそれを食べた起き上がることもできなかった病気の父がみるみる元気になり働き出すのだった。坊主の正体は身なりを貧しく装った弘法大師だったという噂が広まり、村人たちは自分たちのしたことをくい改め娘の優しさに因み「善徳村」と呼んだ。
善徳のわらびはアク出しをしなくても食べられる不思議なわらびと“今でも”言われている。
八塩館 【新沢のお不動さま|新沢】
新沢のお不動さまの近くに滝が2つある。どんな日照り続きの年でも滝の水は途絶えることなく流れていることから、土地の人々は「お不動さまからのお授けの水」として親しまれてきた。また、疲れをいやし、目の病気によく効くと昔から伝えられている。
大蔵桜梅公園 【島のばばさま|島・千葉千代造さん】
今から 100 年程前、島の千葉千代造さんの家にばばさまと呼ばれる産婆さんがいた。お産のさせ方がと評判な人で、お産だけでなく、困った人の相談役としても頼られていた。
ある年の 3 月 15 日、猛吹雪にあい、帰り道を急いでいた婆様は西の浜で雪の中しゃがみ込んでいる旅の女性を見つけた。家に連れ帰り、食事を与えると元になり、吹雪も止むと女性はお礼だ、と木を削って作った小刀を体が悪いとき使って下さい、と渡し旅立った。
春になると、朝から晩まで田畑に出て働く農家の人達は腰や手首など身体中を痛める人が出てくる。ばばさまがそういう人達を渡された小刀で撫でてやるとすぐ治った。これを聞いて昼や夕食後など沢山のひとが訪れた。
ばばさまが亡くなった後、西の浜の登り坂付近に小さなお堂を建て産婆の神として祀った。お堂の中はお礼の小刀で一杯で、奥には慈母の石像がある。毎年 3 月 15 日(旧暦)には、島のお母さん達がお祭りの日としてお詣りをする。
高館館跡入口標柱 大琴の佐々木日出夫さんが建てた高館四季の家から徒歩十数分で登頂でき鳥海山、八塩山、鬼倉山、保呂羽山など360°の景色が堪能できる。
高館館跡 「由利十二頭伝記」による元亀3年(1573)の下村氏と石沢氏の合戦場とされる高館山。崖にニラを植えて敵の侵攻を防いだとの話が言い伝えられている。

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